こんばんは!
フリーダムダンサーのCobAです。
長野県 旧和田村出身。
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物心ついた時から、買い物は近くの街である上田市に母の運転する車で、千曲川沿いの細い裏道を抜けた。
長野市にある親戚のリンゴ農家の畑まで、祖父に連れられてトラックの助手席に座りながら、千曲川を渡った。
千曲川は綺麗で、勢いよく流れる上流独特の水流が、まるで魚がジャンプしているように見えたものだった。
あの赤い鉄橋は、教習所に通っている時に初めて教官にブレーキを踏まれた踏切だ。
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今さっきまであったものが、フツウにそこにあったものが、無くなる。
離れて暮らして、帰省した時に感じる安堵感。
それが無くなる。
時の流れとは恐ろしく無情で、過去と今を分断する。
今あるものは、未来にはないのかもしれない。
被災地の1日でも早い復旧を願います。
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過去、現在、未来
自分達は、未来に向かって生きている。
でもそれは、今だ。
今、何かを感じる事があるのなら、それは過去の産物に間違いはなさそうだ。
一体、何を指標に生きているのだろう?
「未来は変えられない。」なんて、悲観視する意見もあるのだろうが、自分はそう思えない。
むしろ、日々刻々と未来は音を立てて変わっていくものだと感じている。
自分が意図してもそうでなくても。
特に、これからの未来を生きるのなら、変わっていく未来に応じて柔軟に対応していく力が必要とされている。
要するに、短期的展望であり、”今”だ。
先にも述べたように、”今”は、過去の経験と思考パターンが今を作っている。
過去に影響を受け、過去の記憶を辿り選択していく。
「また同じ。」と感じるときは少なくないだろう。
しかし未来は、少なからず変わっている。
仮に、過去と同じ背景で、過去と同じ選択を未来にしたとしたら結果はどうなるか?
良い、悪いは別問題として、結果は違うものになっているハズだ。
昭和後期
敗戦後20年で高度経済成長を果たし、先進国としての立ち位置を手にした日本。
人々はこれまでなかった生き方を見出だし始め、数十年前までの日本にはなかった考え方が定着し始めた。
物が増え始め、豊かな未来を描けるようになった先に、”娯楽”という産業が発展を始める。
しかし、ダンスはまだ娯楽の一部分にもなっていなかった。
平成初期
その後のバブル景気で、世界の経済トップに躍り出るほど国民全体に勢いと、パワーを兼ね備えていた日本。
豊かさは、世界トップクラスとなり、半世紀前に半植民地化されていた雰囲気は、どこかに忘れ去られたようだった。
物は捨てるほど増え、豊かさはほぼ一般化した日本人の共通言語であった反面、格差は次第に広まり、下層域のフラストレーションは溜まっていく一方だった。
メディアインフラの需要により、より高レベルな娯楽が好まれた。
その流れの中で、ダンスは一つの立ち位置を確立していった。
ダンスバトルが多く開催されるようになり、ダンサーはこぞって一位を獲得するために、細かくフリを合わせたり、スキルを磨いたりして、ショー先行のダンスが増えていく。
平成後期
バブル崩壊後の混沌とした雰囲気を抜けられないまま20年以上が経ち、それでもこれまでのような気運には決してならないといった、感覚が人々を染めていた。
大手企業がダウンサイジングを図る中、中小零細企業は成す術なく廃業に追いやられるパターンや、逆に博打に似た事業モデルが奨励されるようになった時期もあったが、その中で一つのキーワードが浮上してきた。
「持続可能性」
それは、3.11の震災の経験も相まって、事業体から個人に至るまで、様々な物に貼り付けられていった。
ダンスも例外無く、その影響を受け始めていたが、当の本人達の中で気付いていたのは、30年以上踊り続けたレジェンドか、これまでの風潮に違和感を覚えながらも、バトルやコンテストで賞を獲るような若手のダンサーだった。
2000年あたりから始まった”キッズダンス”シーンも一巡し、当時のキッズダンサー達が一人立ちしたり、指導を始めた時期でもあった。
その結果、それまで踊ってきたダンサー達が見たこともないダンス業界が出来上がり始めた事に危機感を覚えたのは、自分だけではないだろう。
令和初期
人工知能が人知を超えるのもそう遠い未来ではないだろう。その先のシンギュラリティを考えたら当然の事だ。
誰もができる事は、ロボットとAIに任せていく社会構造がもうそこまでやってきている。
ダンスで言うところの、シンクロ、ステップワーク、振付、新ジャンルの創出に至るまで、今現在人間が生身で踊っている事が、人間以上に品質が良くなるだろう。
既に、そんな影を日常のあちこちで見はじめているのは自分だけだろうか?
自分ごとながら、麻雀は先輩に徹夜で習った。でも、10年打ってないからほとんど忘れてしまったようだ。
今、麻雀などのボードゲームは、既にAIに習った方が実践的で効率的だろう。
AI出なくても、質の高いソフトが出てきている。
そう言う風にして、ダンスもいつのまにか、”ロボットダンスコンテスト”(POPではない。)が行われるような気がする。
でもこれは、悲観的なことではないと自分自身は捉えている。
むしろ、よりナチュラルに、より人間らしく、自分の体を愛し、コントロールし、心豊かにダンスと仲間を楽しむツールとしての役割に戻っていくんじゃないかと期待している。
誰かに求められて踊るのではなく、自分から求めて踊る。
ステップや振付は、競うものではなく、共有し認め合う物。
上手い、下手に固執するのではなく、そうしたい時にそうできる技術を自分が手に入れておくこと。
攻めるのではなく、守るためのダンスであること。
まさに、言葉、コミュニケーション、文化を持つという”人間”にしかないアイデンティティーそのままだ。
“ステキな”
一言で言えば、そんなダンサーがこの世の中に増えたら、きっとダンス界の未来は明るいのだと感じる。