昔の話

こんばんは。

プロとして生きた20年を全て肯定する男CobAです。

先日、師匠に久しぶりに会って頂きました。

「40年こんな事やれていられるのは…」

とうとうと、話してもらいました。

今日のイベントで、ANNYがこんな事いっていました。

「プロとして生きるには、”スキル”は当然の事”仲間を大切にする行動”が必要だ。」

HonjoStreetDanceNationが贈る”BlockParty”でのQ&Aコーナーでの一幕でした。

やっぱり20年以上プロとして活動できている人は同じことを言います。

自分もそう思うのです。

それに気がつくのは、15年から先の5年。

全くステージが違ってきます。

5年前の自分では到底辿り着けなかった考え方を今は持てるのです。

言葉で説明すると安っぽくなってしまうのですが、あえて言うなら、

「他利」

です。

やっぱり安っぽくなりますよね。。。

当たり前のことですが、自分のことはある程度目処がついている状態での事が条件です。

実は、スタジオを始める前に経営の師からこんな事を言われていました。

「では、小林さんは自分のダンススタジオをたたむ用意をすることが成功の条件ですね。」

全く意味がわかりませんでした。

でも今はその方向に全速力で向かっています。

運が良かったとしか言えません。

開業当初から、そんな気持ちでスタートできたのですから。

もちろん当時はその言葉を信じることしかできませんでしたが、今では心臓の奥からそんな日を夢見ていたりします。

いや、その気兼ねなくして人様に何かの指導をする事は許されないとさえ思っています。

必ず誰かが自分の背中を超えていく。

その時にがっしりとした足場になれるように、土台を強く固めていきます。

もちろんですが、自ら止まって道を譲るような事はしません。

全速力で駆け抜ける中に、それよりも速いスピードで走れる人がいるなら最後まで接戦を争います。

最後まで譲りません。

絶対に負けません。

20年前にたった一人で誓ったあの言葉は今でも有効です。

おかげさまで、SUP!!スタジオは200名のメンバーの皆様に愛されながらこの街で楽しく更なる楽しみを創出できるようこれからも尽力して参ります。

アレをやった人

こんばんは。

連日のブログ失礼します!

基本、感動が行動に変わった時に表に出るのが人間なのです。

感動にも種類があって、そう、いろいろあります。

練習という本番

毎日が競争で戦いで思い合いだったなあ。。。と感じれるようになったのはいつ頃からだろうか?

毎日の練習の中に主権の取り合いというか、主張の張り合いというか。。。

ある時は、一番やっているヤツが、

ある時は、一番考えているヤツが、

またある時は、一番面白いヤツがネタの主導権を握っていった。

今では二人で一人の状態が自然と身につき、他の誰も受け入れない体制ができている。

実に穏やかで、お茶を啜っていてもネタが進むようだ。

でも、あの時は違った。

ただ、”尖っていた”だけではなく純粋にそれを信じていただけ。

練習を本番と見れないヤツはそこにはいなかった。

20年前というと大袈裟だが、もうそれに近い。

怪我したり、過呼吸になったり、泣いたり、喧嘩したり…

こんなに真剣にできる遊びに出会えた事がそもそもの幸福だと思う。

その時は、目の前の事しか見ていなかった、というか見ないようにしていたからどんどん手応えがあった。

本番という練習

本番15分前。

ジャンケンで決めるソロの順番が楽しかった。

トリになるヤツが変なポーズで終わる罰ゲーム。

観客が反応するかどうかなんて関係なかった。

ただ、自分達が面白く、この前より楽しくいられたらそれでよかった。

練習した雰囲気なんて見せやしない。

途中で踊るのやめて客を煽るのも面白かった。

どんなふうにしたら目立てるのか?それを試していた。

「カッコよかったです!」「凄かったです!」

そんな声に、笑っていたりもした。

”アレ見てそれしか思わなかったのか??”

「なんであんなことしたの?」「ウケる!」

これが最高の褒め言葉だった。

帰りの車内は、8ミリビデオを見ながらメンバーだけで大爆笑。

一番のファンは自分達だった。

だからこそ、本気で練習し、楽しんだのが分かる。

あまりにもストイックなバックヤードと真逆のステージ。

自分達の本番は、屋根のない吹きさらしのコンクリートの上。

毎日が真剣で、体の極限まで使い込む。

そんな中のたった1日の本番は、息抜きの遊びの時間。

みんなに会えるのが楽しくて、毎日をダンスした。

今日、そんな風景を少し目にしたようで嬉しかった。

どんなことを言っても、アレをやったヤツにしか分からないこと。

それでいい、そのままでいい。

大丈夫、ありがとう。

エネルギー交換

こんばんは。

「春が夏に変わり始めるこの時期。皆さんいかがお過ごしでしょうか?」

今、この文面、ノールックで書きました!

できるようになるモノですねー(^ ^)

フローである価値

今やっている事があるなら、それは必ずできるようになる。

むしろ、できるかどうかは関係なくて、それを楽しんでいるかどうかにかかっている。

楽しんでいる状態は、フロー状態であり沢山のものを吸収する。

逆の状態ではその逆になる。

同じ一時間でも、有か無かの二つに分かれるのが常だ。

違う言い方をしたら、”頑張っている。”状態はどっちの状態なのか?

言葉だけでは測れない側面もありそうだが、本人の感覚はどうだろう?

きっと言葉では表しづらいことに気づくだろう。

そう、頑張っているという言葉は、自分自身にしか分からない。

そして、頑張っているからといってフローにならないなら、それは辛く険しい山を無理やり登っている事を指し、フローであれば登りたくなる楽しい山を登っていることになる。

エネルギー交換

全ての物質は原子レベルで揺れていて、振動している。

振動による波は、空気中を行き交い音叉のように共鳴する。

共鳴した物同士は引き合う。

磁石のようでもあり、そこに人間の感情は関係ない。

S極にN極はくっつくように、全く違った物がくっつく場合もある。

それが自然であり、法則だ。

もしも、自分が大事であると感じているものがあるのなら、心の底から大事であると感じることだ。

そこに損得勘定や操作性を含めた途端に、エネルギーのバランスは崩れ始め、その物体から離れるようになる。

そう、交換ができなくなるのだ。

目の前にエネルギーを渡してくれている人がいるならば、あなたはその人にとって同じぐらいのエネルギーを渡していることになる。

本当にその人、その場所、その物が好きなのか?

頑張らずに楽しめる。

そんな人、そんな場所があるってことに感謝して、今日も楽しめました。

チームとは。

こんばんは。

ダンスだけで生きている男CobAです。

2022年春シーズンが始まりました。

スタジオとしては、25名弱の新しくステージを踏むダンサーと共に130名で多様なステージを盛り上げます。

既にお問合せを沢山頂いていますが、全てにお応えできていない状況で申し訳ないです。

今後、環境整備などを見直しながらより多くの皆さんにダンスを通して家族単位の楽しみを提供させて頂けるよう尽力していきます。

初めてのステージながらも、止まる事なくスムーズにその数分間を過ごしているように見えますが、実はその裏側で経験値高いダンサー達の存在が際立っているのです。

先日のイベントで、ポジショニングを間違えたダンサーをを補完し空いたポジションに入っているダンサーを見つけました。

そんな時、「ダンス踊っているな〜」と思たりするのです。

ステージ上ではアクシデントが付き物。

練習ではできていたのに、全く違った事をやってしまう事もしばしば。

私自身も、理由は様々ですが面白いほどに違った事を20年踊っている今でもしてしまいます(^^)

人は環境を補完し生きています。

それが仕事となり、生活の基盤となります。

人を想うことで、生活しているのです。

私は、相方の行動や言動からそれを感じ取ります。

相方は、私の気が付かないところに気がつき助言したり共感したりしてくれます。

まるで、自分の事のように考えてくれるのです。

私はというと、全く同じように助言したり共感することはできていません。

しかし、相方曰く「私と話をすると元気が出る。」らしいのです。

そんなこと意識してやっているつもりはありませんが、やはり補完し合いながらチームは形成されていくのでしょう。

一時的な意味合いを持つ”クルー”や”ユニット”で同じことが言えるかどうかはわかりませんが、20年程度一緒にやってくようなチームであれば、誰もがたどり着く境地なのかもしれません。

人の一生は100年とも言われています。

一時的に数百人、数千人の知り合いがいる事も大切な思い出なのかもしれませんが、たった数人の人と人生を共有していけるようなチーム作りを体感していく経験。

私には、家族を含めそんな人達が数人います。

それだけで幸せを感じられるのです。

私達が求めているのは、結果だけではなく人生を共有できるチームなのかもしれません。

チームとは、決して馴れ合わず、決して否定せず、決して離れないものである。それ以前に、意図せず補完的であるか?が必要要素の大部分を占めるだろう。

幸せになる事

こんばんは。

ダンスだけで生きている男CobAです。

世界情勢、社会情勢、環境問題、災害。。。周りを見れば目が回るような日々がここ何年も続いています。

ステイアウトしようと思っても、向こうから勝手にやってきます。

見猿聞か猿言わ猿を決め込んでも、勝手に思考に入り込んできます。

だからこそ、未来を見据えること。

「未来なんて見えないし、見たくない!!」

その通りです。未来は不確定要素であり、確約された約束ではないことが、この数年の現象で世界のほとんどがイヤというほど思い知らされました。

その反面で、大きな発見もありました。

”未来とは今の事であり、過去である。”

今の連続が未来となり、今の結果が過去なのです。

タイムマネジメントを深く学べば、誰しもが知っている事ですが、体験的に感じたのはこの時代の変わり目が歴史の観点から見ても初めてなのではないでしょうか?

逆を言えば、未来も過去も無く、今しか存在していないのです。

では、なぜ人は夢を描き想いを馳せるのか?

それは、今を幸せに生きる為ではないでしょうか?

未来をどんなに楽観的に見ようが、悲観的に見ようが起こっていない事は事実ではない。

事実とは、楽観的・悲観的観点から生み出され今をどう生きるかで変わってきます。

心の事実は複数存在するのです。

要は、個人によって事実は形成され個別化されるのです。

ですから、完全な承認の一致はあり得ず、必ずどこかの段階で歩み寄りをしながら他人とのコミュニケーションを完結させていると考えられます。

人は人と生きている。そう感じるのです。

その反面、人は完全一致することもあり得ず、自分の人生を創造し歩いていくのは当然ながら自分です。

誰かの決定や判断に従属していくのは、ある意味安全ですが自分の人生を歩んでいるかというと違うと思います。

幸せは、自分の事を信じられた時にやってきます。

自分の決定、想い、思考、夢、見ているもの、などを自分で信じられること。

今ある事実を信じること。

不安ならそれでいいのです。

怒っているならそれでいいのです。

笑えているならそれでいいのです。

生きているならそれでいいと、自分で信じてあげる事です。

私の幸せとは、今の自分が喜べているかどうか。

気分のいい時も、そうでない時もそんな自分を尊ぶ事ができているかどうか。

そんな瞬間を感じている人が、その瞬間の共有に自分を選んでくれているとしたら、幸せを超えていきます。

私は幸せです。

理由はありません。

そして、これからも幸せになれ!

そう自分に感謝して、周りの人に感謝して2022年を残り9ヶ月進んでいこうと思います。

幸せになれ!

想い100倍

こんばんは。

ダンスだけで生きている男CobAです。

最近本庄にも5Gが入るようになってきましたね。

便利になる事は素晴らしいです。

そう思えばテレビCMでは、6Gの宣伝も始まるぐらいで次から次へと人間の”楽”への欲望は加速していますね。

自分としては、4Gでも心も体もいっぱいいっぱいなのですが、求めている人がいるからこそ技術開発はなされます。

なんでも5Gは4Gの100倍の速度だとかなんとか??

6Gでは遠隔コミュニケーションも可能になるということで、政府のムーンショット計画に向けて着々と進んでいるわけであります。

子ども達が進む未来は一体どんなところに連れて行ってくれるのでしょうか??

Industry5.5

蒸気、電気、コンピューター、IoTときて更に自律化していく社会の中で、私達個人の価値もバージョンアップされていくのでしょう。

今般の東欧での戦争や、世界的に困っていること、地球が傾いていたり、エネルギーの流れが変わっている事。

全部ひっくるめて、地球を含めた宇宙の歴史の中でたった一文字にも満たない激動の数年間が過ぎようとしています。

そこから見ると、たった一瞬で人類の歴史や価値観が変わっていくように見えます。

日本では、戦後復興の45年〜高度経済期の60年代〜バブル期の80年代〜バブル崩壊後の90年代〜さざなみ景気の2000年代〜震災後の10年代〜5Gの20年と価値観が数十年単位から十年単位、ここ最近では数年単位で変化しているのが感じ取れます。その間に幼少期を過ごした人は間違いなく価値観が違った年代となります。

戦前を見ると300年も価値観が変わらなかった江戸時代を筆頭に100年単位で新人類が誕生していたのが想像できます。

これから生まれる人たちは、毎年のように全く違った価値観を持ち合わせて成長するんだろうなと考えています。

まさに多様化。今の多様性とはまた違った意味合いでしょうが、10年後は当然の姿でしょう。

もしかしたら、10歳そこそこで世界を変えるようなリーダーが出てくる可能性だってあるでしょう。

少なくとも、今自分が携わっている子ども達は、自分が子どもだった時に比べて遥かに自由度や精神性が研ぎ澄まされているように感じます。

残念ながら、今は12歳を超えると何かしらの感性の軋轢があるのか、自分のその頃よりも不自由に生きているような気がします。

大人

たった数年で価値観が変化する現代。

少なくとも自分達の時は10年程度価値観が持続していた時代。

そんなギャップの中で、大人が子どもに何ができるのでしょう?

大人が教えることよりも、教わることの方が多くなっているようにも感じます。

私達大人は、経験価値を失ってしまったのでしょうか?

自分はそうは思いません。

楽しく生き、夢を叶え、喜んで生きている姿を見せる事が、私達大人にとっての修行なんじゃないかと思います。

勘違いしないように言いますが、その姿を見せるのは、子どもにではありません。自分自身にです。

新しく生まれ、成長してくる子ども達はそんなこと当たり前なのです。

他人に優しくし、感謝を持ちながら生きる。

そんな幼児達を何人も知っています。

何も教えずとも、笑顔で”ありがとう”が言える。

自分の事よりも、他人に分けてあげる事が先。

ならば、彼らが求めるのは何か?

「自己実現」

そして

「自己超越」

初めから、私達が喉から手が出るほど欲しかった「社会的欲求」は生まれる前から手にしていて、自分が喜び幸せに生きていくことを目的に産声をあげる子ども達が増えるのです。

考えてみてください。

周りのみんなが、自分の幸せに向かって一所懸命に楽しく生きているコミュニティを。

想像しただけで幸せでしょう。

おそらくですが、その中で他人の夢を手伝うことは当然の行為ではないでしょうか?

それは既に、自分を慕ってくれているアラサー世代にも実際に見受けられます。

40を手前にして、やっと人の夢の手伝いをする価値が行動優先順位の上位を占めてきた自分とは周囲の夢の達成速度が格段に違います。

おそらく、10×10=100倍

人生100年。

一生の内に1つの夢が叶えばよかった世代から、1年に1つ夢が叶ってしまう世代。

想えば叶う。の概念は、100倍の速度で叶っていく。

見えないチカラ

こんばんは。

ダンスだけで生きている男CobAです。

今日入ったファミレスで見えないチカラを感じたのです!

「あゝ神よ…」

という事ではなく、単純にメディテーションコーチとミーティングをしていてプロ野球選手の話になって気づいたのです。

“マイナー競技の選手はメジャー競技の選手に比べて小さな事柄や、人にまで感謝している。”

こんな話を聞いていて、目に入った”Drink Bar”の”D”の字に感謝してみたんです。

「俺に教えてくれる為に存在してくれていてありがとう。」

そうすると、次に”Rest Loom”の看板が目に飛び込んできます。

「あの看板をつけてくれた人がいたんだな。ありがとう。」

すると、建物全体が応援してくれているように感じたのです。

そう。

そこに神はいたのです!

やっぱりそういう話になりますね。

その話は別の機会として、人の感覚の話をしようと思います。

全ては言葉

人は自分で発した言葉でできています。

言葉の種は思考であり、心です。

心とは、コントロール可能な範囲もありますが、ほとんどのの領域は抑制不可能な領域です。

抑制は不可能ですが、心の変容は可能で、そのチャンスがあれば何度でも変わることができます。

しかしながら、人は変化を安定と呼びコンフォートでい続ける選択をします。

それが、生き永らえ子孫繁栄させるコツだったからです。

心=行動

です。

実際にその人が行う行動が、その人の心を表します。

良い悪いは、受け取り側の問題としても、言葉や行動で表現された心は隠せません。

特に言葉は、音を発し残ります。

活字だとしても、読んだ人の脳内で波動になり脳に直接伝達されます。

トゲのある言葉を見た時にドキッとするアレです。

その波動は、確実に人に伝わり、その人は何かしらの行動に出ます。

どんな形かは分かりませんが、その延長線上に自分がどこかで絡んでくるのは明確です。

それは、自分が望んだ形ではない形でやってくることもしばしばです。

今、自分自身または近い人に何かを目指している人がいるのなら、是非とも感謝を忘れないでください。

不安や恐怖はどんな時でもあるのが日常です。

不安は不安を呼び、恐れはマイナスしか呼びません。

そんな中でも進む人たちがいます。

私の経験上、彼らは感謝をよく口にします。

恐らく意識して感謝しています。

それは、自分自身への恩恵も視野にあると思いますが、周りの人の為に感謝していることが多いように思います。

目指している人へ敬意を払い、その人の人生を思う。

すると、自然に感謝の言葉が溢れてくるのではないか?そう思うのです。

とかく、子ども達に触れることが日常になっている私達は、その点にしっかりと注意していく必要があると考えます。

彼らがナチュラルに使う、見えないチカラを最大限に発揮できるよう、言葉のチョイスや立場の把握は大切です。

焦らせたり、不安にさせたり、困らせたり、躊躇させるような魔法の言葉は、簡単にかけられます。

私の口癖に気づいている人は多いでしょうが、私はどんな時でも言うようにしています。

“大丈夫”

と。

見えないからこそ信じるチカラ。

冗談であれば安心できる言葉。

見えないチカラは、いつでもどんな時でも働く無限のチカラだと肝に銘じて毎日を過ごそう。

フィルタリング

こんばんは。

ダンスだけで生きている男、CobAです。

最近の休日は、衣装探しに明け暮れそこら中のお店に顔を覚えられてきました(๑╹ω╹๑ )

おそらく、皆さんの想像の付く範囲外のお店にも行っています。

すると、沢山の発見と高級店ってなんだろう?という気持ちにさせられたりもします。

求めているものは常に自分が思っている以外の場所にあるものです。

フィルタリング

フィルタリングは生活の至る所、人生の至る所に存在しています。

今の自分は毎日のフィルタリングの総集編であり、自ら進んでフィルタリングにかかっているのです。

フィルタリングとは、インターネットの閲覧制限に使われる言葉でしたが、ビジネスシーンの至る所でも同じように使われていますし、実は生活の中でも無意識的に個人個人が使っているのです。

例えば、試験なんかは全てが露骨なフィルタリングですし、友達関係で使われる共通用語も一種のフィルタリングとして捉えられます。

商品の料金設定や店構え、店員の所作や言葉なんかもそれにあたると考えます。

そんなフィルタリングに囲まれて生活していると、知らず知らずの内に”自分らしさ”という枠組みを自ら形成しその通りに行動するといった一貫性が生まれてきます。

そこから弾き出される行動パターンを他人が読み取り、個人という設定を決定づけているのです。

それは、自分というコンフォートに身を置くことで、安心して生活できる条件です。

安定的で、障害物が少ない日々が「生きる」事にとっては最大の重要事項になります。

人間の生存本能として、現代の私たちまで受け継がれてきたDNAであり、どんな人達にも備わっている能力です。

しかし、本能と環境は時に正反対の性質を生むことが常です。

狩猟民族にとって、食べることは生きることであり、安定的に生きるには食料を供給し続ける必要がありますよね。

その場合、生活を維持するためには命と引き換えになるような危険な猟に出る必要が必須でした。

それは、自分の命だけではなく他者の命までを背負ったミッションです。

おそらく、そこにもフィルタリングが存在していてどんな動物を獲ったらいいか?誰が獲りに言ったらいいか?どのくらいのスパンで獲りに言ったらいいか?などを家族、またはグループ単位で話あったのではないでしょうか?

それは、先に述べたコンフォートゾーンから自ら身を外し、緊張し不安定なストレッチゾーンに自ら身を置く決定をしなければ、一定単位の命をつなぐことはできなかったのでしょう。

現代に話を戻せば、猟が仕事ということになります。

大きな獲物を獲る=大きな収入を獲る

のシンプルなロジックの通り、個人或いは家族の生活範囲が決まってきます。

より大きな収入を得るためには、もちろんコンフォートゾーンを大きく変えていく必要があります。

しかし、コンフォートを変えることは一筋縄ではいきません。

なぜなら、それまでに多くのフィルタリングを通過してきた自分には、幾多の糸が複雑に絡み合い撚り戻そうとしても、逆に絡んで行ってしまうからです。

私自身はその対処法を熟知しているので、恐ろしいほど簡単に外せますがその経験がない人には恐ろしいほど難しいでしょう。

メンターから教えてもらったのは、35歳までに「一人暮らし」「単独海外旅行」「社会的起業」の3つを経験しない限り、その後の変革はかなりの難易度を要するということでした。

要は、35歳までにその3つを完了できていくような青年時代を過ごす事と、その考え方が備わるような少年時代を過ごす事が大人になった時の自己を決定づけていくのです。

これらも全て有難いことに難なく経験させてもらってきました。

その観点から確定的に思うのは、いくつかあった人生のターニングポイントで必ずフィルタリングがあり、その選択の全てをそれまでの自分でもびっくりするような決定をするべきだという事です。

自分の固定概念を一瞬で変え、その瞬間から全く新しい自分をスタートさせられる。

フィルタリングによって触れることのできる新しい情報や新しい感覚は、これまでの人生には無かったものばかりでした。

逆を言えば、今の自分を疑って観察すること。

人間的判断は、前頭葉の働きによって決定できます。

悲観的で心配事の処理は扁桃体によるものです。

同じく頭を使うでも、使っている部分が全く違うのです。

そして、その二つは同時には動かせません。

従って、前進できる人は前進する考え方をし、その場に留まる人は留まる考え方をします。

脳も自分の一部ですので、コントロールすることは可能なのに、これまでの自分が優位であることから自分を変革することができない。

少なくとも、私が関わる子ども達にはこんなことぐらい伝わって欲しい。

大人になったら名前も忘れてしまうぐらいの存在である私たちだからこそ、長い人生においての一つの鍵となって欲しい。

フィルタリングは常に両極の性質を持っています。

進むか進まないか。

進んだ場合の責任。

進まなかった場合の停滞。

二つに一つ。

こんな簡単な計算式を学校ではなぜ教えてくれないのだろう?

私は迷わずに、進むを選択します。

ADVANCE

インストラクターに必要な資質

こんばんは。

ダンスだけで生きている男、CobAです。

もう、ブログ書かないでいいな〜。って思ってたのですが、最近嬉しいことがあったので書こうと思って数ヶ月が経ちました。

その前に、インストラクターという職業について触れておきます。

一般的には、インストラクターというと専門的な技術などを指導者用の教育を経て資格を持っている人の事を指します。

要するに”有資格者”です。

運転免許の資格と教官の資格は全く違うのが周知の通りで、勉強ができるのと教鞭を取るのは全く次元が違うということです。

技術自体の難易度については諸説ありますが、アメリカでは”I,m First Time!”でインストラクションを行うこともあったりなかったり…

教え方のロジックさえ分かってしまえば、何事にも応用が効くということなのでしょう。

インストラクターの最高価値は、言葉だけで誘導できること。

インストラクターの最低価値は、目だけで見せて誘導すること。

最低限、目では見せられるようにしようね。

ということと、言葉だけで具体的にイメージさせられたら最高だね。

という相反した性質を持っています。

ということで、言葉だけで指導する。言い換えれば、動かずとも現実化させる。

そんなインストラクターが実際にいることを目の当たりにしてきました。

先日、自分のセルフケアのミスで鎖骨周辺を損傷させ、動かぬ体となりました。(その際は大変ご心配をおかけしました。)

最大限の知識と自助努力の結果、3日で(トレーナー曰く、ありえない…)完全修復させることができましたが、その間の5レッスンに関しては、全く動くことができずに”言葉メイン”でレッスンを行いました。

その結果!!

皆さん、動きの理解に必死になり全快時のレッスンと遜色なく行うことができました。

むしろ、動かない方がメンバーの皆さんにとって思考力を働かせるキッカケになったんじゃないかなと思ったりもしています。

KIDSクラスですらそうでした。

それは、急に始まったことではなく日頃から思考しながらレッスンに勤しんでいる皆さんの努力の賜物だという証明です。

レッスンを受けるに際して、必要なことは”イメージすること”です。

自分自身、師匠にレッスンをつけてもらうときに「考えろ!」「周りと同じことをするな!」と叱咤いただきます。

大人であれ、子どもであれイメージすることは同じです。

言語的理解力に差があったとしても、頭の中の想像図はその人にしか描けません。

それを、描かせてあげる。

それをインストラクションと言います。

指令を出す係ではないのです。

その人に寄り添い、理解し、発想するチャンスを与える。

だからこそ、その人自身が伸び、その人自身の身になるのです。

弟子たちにはキツくこう言います。

「レッスンはお前のモノじゃない。」

黒子に徹し、その人のベネフィットにどれだけ近づけられるか。

人の事を想う。

それが、インストラクターの唯一の資質というもので、資格とは一切関係のないものです。

資格を取るのはすごく簡単です。

ですが、資質はほぼ一生変わりません。

脳みそをハンマーでぶっ叩かれるほどの衝撃を与えられた時にだけ、資質を変えるチャンスがやってきます。

資質とは人であり、行動であり、言葉です。

人は偽りますが、行動は偽れません。また、言葉は全て自分の体が全て聞いているので自分に見抜かれます。

亡くなった敬愛する経営者の先輩が弱った体でスタジオに来てくれてこう話してくれました。

「言っている事よりやってる事。」

それは深く、言われた方には大きな愛のある言葉でした。

事実、それが本当であればその人はそういう人である。

ダンスインストラクターには、一般的なインストラクターよりも繊細な部分があります。

それは、子どもに触れる事です。

キッズダンスの需要の増大から、アンダーグラウンドで活動していたダンサー達はオーバーグラウンドでの活躍のチャンスを手にしました。

さらには、テレビ出演などからもメディアに露出する機会が増えてきました。

今では当然のことですが、2000年周辺では多くの軋轢があったように感じます。

それから20年経った今でも、悪しき伝統として今もあり、味や色として継承されていくこともあります。

まさしく、文化であると認識できます。

が、この10年でアンダーグラウンドに終止符が打たれようとしている今。

少なくとも自分自身が見てきたアンダーグラウンドとは180度変わってしまっている今。

ダンサーは、オーバーグラウンドで生きる術を身につける他ないのです。

・刑事事件性のある者

・一般常識を逸脱した者

・健全な教育に支障がある者

・ミスコミュニケーションを引き起こす恐れのある者

・間違いを認めない者

・自分の事しか考えていない者

・人に関わる勉強を怠る者

この行動を一つも行わない事がダンスインストラクターの資質であり、価値である。

現在、自分の周りにこういったインストラクターがいないことを誇りに思い、掃除係に邁進していく所存であります。

今、目にかけている弟子がこんな事に気づかせてくれました。

きっと素朴ではありますが、優秀なインストラクターになるでしょう。

自分自身、そんな人になれるようこれからも邁進していきます!!

曲げられないアイデンティティ

こんばんわ!

「ダンスを力に!!」執行部のCobAです。

春高バレーが始まりましたねー。

何を隠そう高校時代は、全国制覇を目標に当時強豪ひしめくある県で一二を争っていた過去があります(^ ^)

残念ながら県大会ではオール準優勝で全国への切符を喉から手が出るほど欲かったのを昨日のように思い出します。

なんでそんな話をしているか?というと、ニュースで春高バレーの特集が始って県大会決勝の様子が見られるサイトを見つけ、ふとクリックしたところ当時の監督がコーチとして映っていたからです。

数年前、同学年の結婚式で再会した監督は、定年を迎えるからもう辞める。と話ていましたが、ベンチに座るその背中は当時のままで恐怖そのものでした。

さらに驚いたのは、決勝両校の監督が同世代のライバルと伝説の先輩になっていた事です。

結果は、フルセットの末監督の高校が負けてしまいましたが、やっぱり時代を越えても同じような共通点がありました。

まず、7年間同じカードで決勝を戦い負けていること。

どうしても越えられない壁がそこに存在する。

万年2位の自分達からすると、あのユニフォームを見るだけで武者振るいがして、「今回こそは!!」という気持ちになったものでした。

しかし、その気持ち自体が体を硬直させ、いざ決勝のセンターコートに立つと思うように体が動かなくなるのもあるあるでしたが…

越えたくても越えられない壁がすぐ側に存在することは、自分を奮い立たせる大きなオブジェになっていたようです。

2点目は、監督の高校は県内の生え抜き選手を使っていた事です。

対する優勝校は県外から選手を呼んでいました。

それは、当時の構図も同じでよく監督は、「県内選手で一番だ!」と負けた時に励ましてくれました。

その時からか、土地を大切にする意味が理解できた気がしています。

3点目は、絶対的エースがいない小さなチームだということです。

大体の強豪校には絶対的エースが存在します。

「困ったらエースに渡せば決めてくれる!」そんな風に強いカードを一枚でも持っているチームは強いのです。

もちろん、それ以外の選手が全国クラスで有ることは当然の事ですが、それを遥かに越えて誰もが頷くエースがチームの窮地を救ったりするものです。

しかし、監督のチームには絶対的エースがいないように思いました。

当時も同じように絶対に決めてくれるエースが存在せずに身長もセンターをのぞいて170cm台と小さかったことも含めて、「一発で決めようと思うな!全員で拾いまくって相手が崩れたところを狙え!」とタイムアウト中に鼓舞していました。

※拾う=レシーブ

その分基礎体力、基礎技術練習は他校の倍以上はやったと自負しています。

練習を効率的に行うタイムマネジメントも強烈でしたがこの時に初めて学びました。

さらに、レシーバーだったけど部長だった自分には、頭の中身まで使ってチームに貢献するように叩き込まれました。

そのおかげで、大学に進学してからはキャプテン兼監督としてチームのマネジメントも達成できたと感じています。

結局、当時の最高成績は北信越大会3位、全国出場校2校撃破でしたが、そんな事以上に大切な物をもらったような気がしています。

現在のスタジオのキッズダンスの指導方針と、今お話したことが見事に合致しているのです。

集まったメンバーで最善の策をとり、自分一人で考えられることは考え、常に壁にぶち当たりながらも、みんなの力で目標を達成する。

言葉では簡単ですが、高校3年間を純粋に過ごした経験値は、今最高の結果となって発揮されています。

画面越しに、「きっと、この子達も同じよう感じる時が来るんだろうな。」と感じた数時間でした^_^

“部活のプロ”から見て、一般の部活ではできないことをハッキリと身につけていることが分かってよかった。

監督!

ありがとうございました!